バンクシーと100円のビートルズの話
先日こんなニュースがあったが、Twitterやネットニュースで見た人も多いのではないだろうか。
かねてより絵画のオークションに否定的であったストリートアーティスト・バンクシーが、自分の作品が落札された直後に額縁に仕掛けていたシュレッダーで絵を破壊した、というものだ。
とはいえ、絵画の価値は作品自体の技巧に加え、歴史的背景や作者によって決まるらしい。
そのため、この事件によってまた作品の価値が上がるなんて話もある。バンクシーも不本意なことだろう。
このニュースを聞いた時、僕は「最高にかっこいいな」と思った。
資本主義に中指を突き立てる行為。
落札者は気の毒だが、最高にパンクだ。
それから数日経ったある日、僕はCDを借りるため大学近くのTSUTAYAに居た。
CDを選びながら、ビートルズの棚を前にしてあのニュースを思い出す。
ビートルズのベストアルバムが、7泊8日で200円。
バンクシーの絵は1億円。
劣っていると言うと語弊があるかもしれないし、第一、音楽と絵画という別ジャンルの作品を比べること自体ナンセンスかもしれない。
しかし、この2つの作品の価格には事実、これほどまでに差がある。
ただ一点違うのは、音楽はデジタルな情報として共有されるが、絵画は個人によって占有されるということだ。
だからビートルズのもたらした経済効果は1億や2億じゃきかないだろう。
個人的には絵画も画像データとして売ったらいいんじゃないかな、と思うが、それが現実的には難しいからこそ美術館の意義が大きい。
まあ、つまり何が言いたかったかというと、音楽って自由で良いですよね。
ヨーロッパ旅行記二日目
パリ二日目!
よく寝て前日の疲れをリフレッシュした僕たちは、宿の近くのカフェへ朝食を食べに行きました。
僕はバナナとチョコのパウンドケーキみたいなのを食べました。
たぶんブルーチーズ?が練りこんであって、見た目よりこってりしてておいDでした。食べ応えも十分。
あと、カフェの店員さんがラテン系の強面の男性で、三人で「洋画だったら絶対悪役じゃん」とか好き勝手言ってたんですが、帰り際に写真を撮ってくれたり、メニューを英語で説明してくれたりとメチャクチャ親切でした。
映画の見過ぎですね。
その後は町ブラしつつ、あの映画「アメリ」の舞台になったことで有名なカフェで、クレームブリュレと紅茶を頂きました。(僕以外の二人はアメリを見ていなかったのでピンときていませんでした)
そして夕方ごろ、パリの空港からバルセロナへ向かいます。
物凄い弾丸ツアーみたいになってますが、パリにはまた帰ってきます。
2時間弱のフライトを終えてバルセロナ空港に到着。
ここにも銃を持って巡回している軍人がいて、またまた失禁してしまいました。
ちなみに、エールフランスの航空機の座席番号には13だけがありませんでした。
キリスト教における悪魔の数字だからでしょうか。面白いですね。
なんやかんやで宿の民泊に着いたのが午後8時くらいだったので、スーパーで買った飯を食べて寝ました!
トマトのパスタとクロケッタ(チーズとジャガイモが入ってる、トロトロのコロッケみたい)。おいD。
原木から切り出してたての生ハムとクリームチーズ。おいD。
スペインのスーパー、レベル高いです!あと物価が安い!
「おかえりなさい」に何と答える
そりゃ「ただいま」でしょ。
違う。僕が言いたいのはそういう話じゃない。
小学生のころから、ずっと疑問に思っている事がある。
僕は物心ついた時から今まで、ずっと同じマンションに住んでいる。
家族向けのマンションであるため、同年代の住人も多く、母親同士も仲が良かったと思う。
となると、必然的に小学校になる頃には住人の多くが顔見知りになる。
また生活リズムも大体同じになるため、学校が終わり帰宅してくる時間帯になるとかなりの高確率で、廊下やエントランスなどの共用スペースで同じマンションのおばちゃんと遭遇する。
マンションに住んだことのある人なら分かると思うが、夕方、ランドセルや制服を装備しておばちゃんと出会すと、100%「おかえり」と声をかけられる。
僕は、この「おかえり」に対する正しい回答が大学生になった今でも分からない。
普通に「ただいま」と返せばいいじゃないか、と思われるかもしれない。
でもそれはあまりにも家族っぽすぎないか。
同じ家に住んでいるわけでもないし。
マンションを1つの家だと拡大解釈するなら話は別かもしれないが、それにしたって挨拶を交わすだけの仲なのだから距離が近すぎる気がする。
「こんにちは」はどうだろう。
バッタリ会ったときの挨拶としては適切だ。
しかし、「おかえり」に対する返答としてはいささか不自然ではないか。
「おかえり」
「こんにちは」
なんだアスペか?帰ってくれ。
考えすぎだということは百も承知だが、一度気になりだすともう安易に「ただいま」とは言えない。
おかえりと先に言われた時点で「詰み」なのだ。
僕は高校に上がる頃にはその事に気付き、おかえりと言われる前に先手をとって「こんにちは!」と言うようにしていた。
いつも自分から元気よく挨拶をするので、母親から聞いた話だと「挨拶の出来るいい子だね」と言われていたらしいが、その実はただ「おかえり」と言われるのを避けているだけだったのだ。
え?じゃあそれ以前はどう返してたかって?
正解が分からなかった小学生の僕は、「どうも」って返してました。
嫌な子どもだな~
僕は鋼の錬金術師完全版の全巻セットがいい
つい最近のことだ。
先日、彼岸の間に予定が一日空いていたので、墓参りに行ってきた。
家の墓があるのは丘の上に墓地が並んでいる霊園なので、
別にそのつもりはなくても、どうしても他の家の墓が目に入る。
彼岸の時期だったということもあり、多くの墓には花と線香が手向けられ、お茶、お酒、饅頭、タバコなどのお供え物があった。
お茶やカップ酒なんかはよく見るが、生前、故人の好きだったものを供えるパターンも多いんだなーなんて思いながら歩いていると、
まるで当たり前のようにガンダムが供えられている墓を見つけた。
断っておくが、これはマジの実話である。
僕はそこまで詳しくないため、なにガンダムかは分からなかった。
しかし、悪びれもせず堂々たる佇まいで確かに未開封の組み立てていないガンプラが墓石の前に鎮座している。
なんなら箱がデカすぎるので通路にちょっとはみ出してる。
生前よっぽどガンダムが好きだったのかな?
このまま置いていたら他のお供え物と一緒に住職に回収されるのかな?
思わず立ち止まってしまい、そんな事を考えた。
以前なにかで読んだのだが、
お墓に入っているご先祖様は、饅頭やお菓子などのお供え物は一瞬でお召し上がりになるので墓参りをした後普通に持って帰っていいらしい。
「持って帰ってもよい」という部分から、これは食べ物を無駄にしないための言い伝えだと考えられるが、
その理屈でいくと供えられたガンプラも、ご先祖様は一瞬でお組み立てになるのだろうか。
だったら工具とかスプレーとかも一緒に供えたほうがいいんじゃないかなあ、知らんけど。
でも、ガンプラが許されるのならお供え物っていうのは意外と自由なのかもしれない。
自分が死んだら何を供えてほしいだろう。
そうだなあ、
Smells like teen spirit 和訳(直訳)
Here we are now, entertain us
A mulatto, an albino, a mosquito, my libido
Yeah, hey
And for this gift I feel blessed
Our little group has always been
A mulatto, an albino, a mosquito, my libido
A denial, a denial, a denial, a denial
ヨーロッパ旅行記一日目 ~モナリザとマシンガンと私~
こんにちは。
近頃は外もすっかり涼しくなり始め、秋の香りを感じさせるようになってきましたが、僕は大学生なので、まだ夏休みを謳歌しています。
先日、この休みを利用して、大学の友人のOくん(空港に前日入りするも、家にパスポートを忘れて取りに帰ってた)と、Kくん(一番ちゃんとしてる。九州出身なので酒が強い)とともに一週間のヨーロッパ旅行に行ってきたので、旅のダイジェストを何回かに分けてお送りしたいと思います。
ヨーロッパに行く予定のある方は参考にしてみてください。
台風の影響で関空を使えなかった僕たちは、福岡空港からの振替便に乗って今回の旅の目的地、パリへと向かいました。
そして到着。
「「「パリだーーーー!!!!ウォーーーー!!!」」」
計16時間のフライトを終えた僕たちは、長旅の疲れも忘れてはしゃぎます。
「パスポート」
入国審査の人がゴリゴリの黒人(めっちゃ不機嫌)で、怖くて不覚にも失禁してしまいました。
さらに空港内を歩いていると、テロを警戒してでしょうか、軍人が銃を持って巡回していました。
生まれて初めて見たモノホンの銃にまたしても失禁してしまいました。
気を取り直してまずは宿に行って荷物を置き、観光に繰り出します。
凱旋門!スゲーーーー!!!
シャンゼリゼ通り!スゲーーーーーーー!!!!!
ルーブル美術館!スゲーーーーーーーー!!!!!
盛りだくさんの一日目でした!
パリ、空気はめちゃくちゃ汚いけど(タバコと排気)街並みめちゃめちゃキレイです。
噓をつく子どもと正直な大人の話
「子どもは汚れを知らないから大人よりも純粋だ」
これは昔から言われてきたし、今さら議論する余地もないだろう。
確かにこどもは純粋だ。
生きている上での経験値が浅いので、疑うことなく周りの言葉を信じてしまう。
ある程度成長してサンタクロースを信じなくなるのも、生きる経験値を積み重ねることで論理的な思考や基礎的な「科学」という視点を身に付けることによるものだろう。
そう、「純粋」であるということは「無知」という言葉に言い換えることができる。
小学校の頃だ。夏休み、冬休みに入ると課題図書の読書感想文が出される。
学校で配られた原稿用紙に、「面白かったです。」と書く。
噓である。
ドッチボールやテレビゲームが楽しくて仕方ない年頃だ、学校で指定された本がそれらより面白いわけがない。
「つまらなかった」と書けば先生に怒られるのは目に見えている。
しかし、「面白くない理由」を考えても、それを言語化するだけの語彙や表現力を子どもは持たない。
大人になった今でこそ「情景描写が冗長」「最小限の起承転結からなるシンプルな構成が良い」などといった批評の視点と表現方法を私たちは獲得しているが、子どもは「なんかつまんないな」といったモヤっとした感想を抱くだけである。
つまり、読書感想文に「面白かったです」と書く子どもも、「つまらない理由が分からない」「大人に怒られたくない」といった彼らなりの理由の上で噓を吐くのである。
大人になるにつれて、言葉を知り、表現の方法を知り、だんだん本当のことを言えるようになっていくのだろう。
15~16世紀の彫刻家であるミケランジェロは
「どんな石の塊も内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ。」という言葉を残している。
「説明」という作業も同じようなものなんじゃないかな、と私は思う。
「言葉」という道具の中から正しいものを選び、使い、有象無象の中から「本当のこと」を掘り出していく。
きっと、これらの道具を獲得して正しい使い方を学ぶ過程のことを「国語学習」と呼ぶのだろう。