じふのブログ

人は、語ることの出来ないものに対して沈黙しなければならない。

「ラブライブ!」における萌えのユニバーサルデザイン及び偶像としての完全性についての考察

ラブライブ

 

 

ほとんどの人が名前くらいは聞いたことがあるだろう。

 

2012年1月に原作コミックスの連載がスタートし、翌年に放送されたアニメ内ユニットが紅白歌合戦にも出場したことのある大人気アニメだ。(wiki調べ)

 

俗に「ラブライバー」と呼ばれるファンの中でも過激派の人々がちょっとした社会問題になったりもした。

 

かく言う僕も、先月Netflixの無料トライアル期間に「なんか有名なやつ見とくか」と思ってなんとなく見始めたところ、見事にドハマりした。

 

ちょうど試験期間だったので勉強しながらアニメを垂れ流していたのだが、

その結果PCをチラチラ見ながら「めっかわやん…」「うっわかわい…」などと呟く激ヤバおじさんが誕生してしまったのだ。

 

さて、それでは何故ここまでラブライブは大ヒットしたのだろうか?

今回はその理由をいくつかの観点から独自に紐解いていきたいと思う。

 

まず、ラブライブシリーズの主人公にあたるスクールアイドルユニット「μ’s」は1・2・3年生それぞれ3人からなる9人組のアイドルグループである。

 

それぞれのメンバーに強いキャラクター性が持たされており、性格や容姿だけではなく家庭環境や趣味などについても綿密に言及されている。詳しくは割愛するので是非ググってみて欲しい。

 

9人それぞれが別の方向性をとって主役級の魅力を兼ね備えておりほとんどの属性をカバーしている。

したがって、誰もが等しく「μ’s」に対して萌えを感じることが出来る、いわば萌えのユニバーサルデザインとでも呼ぶべき構造が出来ているのである。

 

さらに注目すべきは「メンバーが1・2・3年生各3人である」という点である。

 

学年の上下関係があることによって、

一年生と三年生だけのときは何を話すのか?休日遊ぶときはやっぱり同学年が多いのか?

といった想像の余地が与えられると同時に、人間関係に奥行きが生まれ、会話や行動の一つ一つに深みを与えている。

 

また、学年が存在するということは卒業するということでもある。

三年生は受験勉強と並行して活動しているのかもしれない。

彼女たちの一瞬の青春に命を燃やす様は、古くから無常の儚さを愛でてきた日本人の精神性とも嚙み合う部分があったのだろう。

 

「でもどうせ画像データでしょ(笑)」

 

風流を解さない人はこう反論してくるかもしれない。

 しかし、ラブライブに関してはこの無粋極まりない反論に対する完璧な再反論が用意されている。そして、それこそがラブライブの最も恐るべき特徴でもある。

 

その再反論とは、声優自らがμ’s名義でライブ活動をしているということである。

これによりファンとラブライブの間に物理的な距離が生まれ、2次元と3次元を完全に超越した完全な偶像(idol)として、両者の欠点を完璧に補い合っている。

 

消費者の側にはラブライブというコンテンツを受容する方法に選択の自由が生まれ、 さらにはアイドルファンの層の取り込みにも成功した。

前述した紅白歌合戦への出演を可能にしたのも、声優という三次元へのメディアあってのことだろう。

 

以上のことから、ラブライブがいかにコンテンツとして優れているかお分かりいただけたかと思う。

 

 

それでは僕はこの辺で、スクフェスのLPが溜まったみたいなんで失礼します。