噓をつく子どもと正直な大人の話
「子どもは汚れを知らないから大人よりも純粋だ」
これは昔から言われてきたし、今さら議論する余地もないだろう。
確かにこどもは純粋だ。
生きている上での経験値が浅いので、疑うことなく周りの言葉を信じてしまう。
ある程度成長してサンタクロースを信じなくなるのも、生きる経験値を積み重ねることで論理的な思考や基礎的な「科学」という視点を身に付けることによるものだろう。
そう、「純粋」であるということは「無知」という言葉に言い換えることができる。
小学校の頃だ。夏休み、冬休みに入ると課題図書の読書感想文が出される。
学校で配られた原稿用紙に、「面白かったです。」と書く。
噓である。
ドッチボールやテレビゲームが楽しくて仕方ない年頃だ、学校で指定された本がそれらより面白いわけがない。
「つまらなかった」と書けば先生に怒られるのは目に見えている。
しかし、「面白くない理由」を考えても、それを言語化するだけの語彙や表現力を子どもは持たない。
大人になった今でこそ「情景描写が冗長」「最小限の起承転結からなるシンプルな構成が良い」などといった批評の視点と表現方法を私たちは獲得しているが、子どもは「なんかつまんないな」といったモヤっとした感想を抱くだけである。
つまり、読書感想文に「面白かったです」と書く子どもも、「つまらない理由が分からない」「大人に怒られたくない」といった彼らなりの理由の上で噓を吐くのである。
大人になるにつれて、言葉を知り、表現の方法を知り、だんだん本当のことを言えるようになっていくのだろう。
15~16世紀の彫刻家であるミケランジェロは
「どんな石の塊も内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ。」という言葉を残している。
「説明」という作業も同じようなものなんじゃないかな、と私は思う。
「言葉」という道具の中から正しいものを選び、使い、有象無象の中から「本当のこと」を掘り出していく。
きっと、これらの道具を獲得して正しい使い方を学ぶ過程のことを「国語学習」と呼ぶのだろう。