じふのブログ

人は、語ることの出来ないものに対して沈黙しなければならない。

天気の子 感想 <日本アニメを体現した映画>

 

 

天気の子を観た。

 

見終わった直後は、期待値がかなり上がっていたこともあって、感動はしたもののモヤッとした物足りなさのようなものが残った。

 

しかし時間をおいて考えてみて、天気の子という映画について思うところが出てきたので、ここに記しておきたい。

 

 

「天気の子」は非常に挑戦的で、愛に溢れた映画だった。

 

 

 

まず、スポンサー企業の名前が劇中には多く出てきた。(Yahoo、バイトルソフトバンクなど)

これに関していわゆる”大人の事情”があることを感じてしまって冷めた、という意見も耳にした。

 

しかし劇中での扱いはといえば、バイトルでは主人公・帆高のバイトは見つからず、Yahoo!知恵袋では説教しか返ってこない。

そういうところはあくまでもリアルであり、個人的には制作陣の反骨精神というか、媚びない姿勢を感じて良かった。

 

 

 

 

次に、賛否両論あるのが瀧・三葉をはじめとする前作「君の名は。」のキャラクターのカメオ出演だ。

特に瀧はグイグイ来るしめっちゃ喋る。

 

これも、見ようによっては前作のファンに媚びているという風にとることも出来るが、私はむしろ真逆に捉えることも出来ると思った。

 

君の名は。」は、紛れもなく世界的に評価され、商業的にも成功した映画だ。

その素晴らしい作品の主人公たちが次回作に端役で出ていたとして、見に行きたくなるだろうか?

私ならむしろ見たくない。

 

天気の子という作品は「帆高と陽菜」のふたりの中だけで展開される近影的な作品だ。

この物語の中では帆高と陽菜の関係の中で物語は編まれていき、テーマの性質上、他の人物は「その他大勢」として描かれる。

 

その物語の中で、大ヒットした前作の主人公たちを、「その他大勢」のモブに落とし込んでしまうことは非常に勇気のいることだったのではないだろうか。

この演出には制作陣がこの作品に懸けているものが伝わってくる。

 

 

 

さて、ここからが本題だ。

 

 

天気の子では、数々のブログなどで「パクリ」と揶揄されている、日本アニメ映画へのオマージュも特徴的となっている。

 

帆高が叫びながら線路上を走るシーンは細田守監督の「時をかける少女」のラストシーンに酷似しているし、帆高と陽菜が手を繋いで空を落ちていくシーンは宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」の見せ場のワンシーンを彷彿とさせる。

 

そう、あまりにも似すぎているのだ。

パクリという言葉自体、他の作品のアイディアをあたかも自分のもののように見せることを指す。

しかしながら、明らかに有名な作品にここまで意図的に似せているとなると、もはやオマージュといって差し支えないだろう。

 

では、その目的は何なのか?

 

 

上述したように、この「天気の子」という作品は、帆高と陽菜の非常に狭い世界で展開される近影的な作品だ。

そしてこの二人の関係が世界の存亡を左右するという、典型的な「セカイ系」の作品でもある。(詳しくはググってください)

 

そういった観点からみると、天気の子は「新世紀エヴァンゲリオン」の系譜にあるとも言える。

 

しかしそういった「セカイ系」の作品自体、ゼロ年代以降めっきり少なくなっている。

 

私が天気の子を観た直後に感じた物足りなさは、今や見なくなった「セカイ系」への時代錯誤な印象であったのだ。

 

ではなぜ2019年に新海誠は「セカイ系」をやったのか。

それが先の問いへの答えとも繋がっていると私は考えた。

 

 

 

天気の子が公開された背景を考えてみると、「君の名は。」が大ヒットした直後の作品だ。世界的にも次回作への注目度は高まり、普段アニメや映画を見ない層にまで届くことになるだろう。

 

もはや日本を背負っているような、そういった状況で、新海誠は、「天気の子」に日本アニメ作品へのオマージュをふんだんに散りばめたのだ。

「パクリ」と誹られかねない忠実さで、それでもリスペクトを持って。

 

それも、消えゆく「セカイ系」という文脈に乗せて。

 

 

 

「天気の子」は、日本のアニメへ宛てたラブレターであり、レクイエムだった。

 

私はそう感じた。

 

 

 

おわり