じふのブログ

人は、語ることの出来ないものに対して沈黙しなければならない。

2021年2月17日と18日の日記


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昨日と今日の日記。

 

大学生協ショップに見たことない弁当があったので食べました。

めちゃくちゃオススメされていたのでつい買ってしまった。

 

味は美味しかったです。生協の弁当ではかなり上の方だと思う。

ただパッケージの画風とモノクロなのはおいしそうに見えないからちょっと変えた方がいいと思う。

 

 

昨日今日と、二日続けて3回生の研究室見学でした。

僕は座談会的なセクションにだけ参加していたが、研究室配属を控えた3回生から他の研究室事情なんかを聞けて面白かった。

 

話を聞く限り、この時勢のオンライン化の影響は研究室選びにまで波及しているらしく、オンラインでの授業が面白い先生の研究室に人気が集中しているらしい。

 

研究室配属は、全て講義の成績順で決定される。

そのため、僕の頃は成績と希望研究室を有志の学生が出口調査して集めてたりしたが、オンラインになるとそれすらできないもんな。

一部の学生はSNSを通してアンケートを取ったりしているようだが、基本的には成績での殴り合いになるわけだ。

 

 

 

 

 

今日知ったこと。

 

我思う、ゆえに我あり」という言葉で有名なデカルトというフランスの哲学者がいる。

近代合理主義のモデルとして扱われることの多い彼の著書「方法序説」のなかに、

「動物=機械論」という主張がある。

 

 

ものすごくざっくりと説明すると(間違っているかもしれない)、人間には理性があり言語を以て対話することが可能であるが、動物には”一切”理性が存在せず対話ができないという点で、機械と区別することがついに不可能である、という説だ。

 

ここでカギとなるのが「対話」という言葉の持つ非身体性で、例えば生まれつきの聾啞の人であっても点字や筆談を用いて対話が可能である。脳に障害がある人でも対話が”一切”不可能というわけではない。発声器官の有無は関係ないということが強調されている。

 

しかしながら、動物のなかにも豊かに感情表現をするものもあるじゃないか、と思う人もいるかもしれない。実際にデカルトも動物に情念が存在することは認めている。

 

ただし、デカルトの定義では情念は「理性」に含まれない。

彼は情念に関して、「外部刺激に応じて身体器官が反応する機械的な自然運動にほかならず、この意味で、感情表現なるものは、機械によっても再現されうるものにすぎない」という立場をとっている。

 

 

人間と動物とは理性によって区別されるが、機械と動物を区別をするものは一つもないというわけだ。

 

この動物=機械説が記された「方法序説」が出版されたのが、恐ろしいことに1637年。

 

 

2021年の現在、ロボット工学の発展に伴い、aiboに始まり精巧な動物型ロボットも多く登場し、技術がデカルトの理論に追いつきつつある。

 

 

ただ一点だけデカルトの予想していなかったものは人工知能の出現だろう。

自ら学習を重ね、成長する人工知能

果たして我々はこの先も永遠に、人工知能と「対話」することが不可能なのだろうか?

 

 

果たして人間は機械なのか!?そうじゃないのか!?

 

人類の明日はどっちだ!!乞うご期待!!!