ボコボコのディーンフジオカの話
人(ひと)運が、無い。
具体的には、映画を見に行っても、電車に乗っても変な人とよく遭遇するし、飲み屋ではよく変な人に絡まれる。
運がないのだろうか、僕が住んでいる地域はそこまでガラが悪いわけではないはずだが、とにかくおかしな人とよく遭遇する。
特に映画は、100%楽しみたいので人の少ない回に行って自衛もしているのだが、それでもエンカウントは避けられない。
前に「グレイテスト・ショーマン」を観に行ったときなんかは、
横に座ったゴーヤみたいな顔の大学生がいきなり靴を脱ぎ出して足臭をこっちまで充満させたかと思えば、前に座ったしいたけの裏側みたいな老人が上映中にスマホを見始めてマジかと思った。
貴殿らが人間の法を守らぬならば我もまた獣になろうではないか、とか思った。
ここで僕は考えた。
なぜここまで変な人に悩まされるのか?
答えは実にシンプルだ。
変な奴は、目立つのだ。
もちろん1億2000万の人間が暮らすこの日本社会で、ほとんどの人が良識ある一般市民だ。
しかし、その中でズレている人はどうしても目立つしそういう人ほど声がデカい。
絶対数でいえばほとんどの人間が常識人だが、ただ自転車で車道の真ん中を走り、コンビニ店員にホテルのような接客を要求し、道を塞いでポケモンGOをしているような人に目がいってしまうという話だ。
ここからは完全に経験則なので共感していただけないかもしれないが、傾向としておかしな人の中で老人の割合が高い気がするのって何でなんですかね?
自分が行く末なので、あんまり”老人”と一括りにしてこういう事は言いたくはないのだが、やはり加齢とともに注意力や視野は落ちていき、クシャミの音はデカくなっていってしまうのだろうか。
ここらで止めとこう、俺、おじいちゃんっ子だし。
さて、話を戻すと、要するに”変な奴ほど周りから浮くために注意を引かれてしまう”ということだが、
ひょっとすると「出る杭は打たれる」ということわざも、元々「周りから浮いてる奴はめちゃくちゃボコボコに叩かれる」という意味だったのではないだろうか。
だって普通「才能がある人」を「出る杭」なんて抜けかけの不完全なものに例えますか?
例えば、「とんびが鷹を生む」では才能がある人は鷹に例えられている。鷹は完全にとんびの上位互換だし、これなら納得できる。
しかし、出る杭も埋まっている杭も、物は同じではないか。しかも杭は出ていて
は杭として機能しない。完全な役立たずだ。
それをまた頭のおかしい奴が、「叩かれるっていうのは、俺の才能に嫉妬してるってことだから」とか言い出したに違いない。そうに決まってる。
以上の理由から、「出る杭」という表現は「才能がある人」の例えとしては不適切だ。
皆、「これはことわざだから」という極めて非論理的な理由で思考停止しているのではないだろうか?
先人たちの築き上げたものを改良し、アップデートしていく。
こうして人類は進歩してきたじゃないか。
こういったことわざも、我々の時代に合った形にチューニングしていくべきだ。
何をまた馬鹿なことを、と思われるかもしれない。それでいいのだ。
革新者はいつの時代においても非難を浴びてきた。
これぞまさに、出る杭は…
違う違う
えっと
ディーンフジオカは打たれる、ってね。