じふのブログ

人は、語ることの出来ないものに対して沈黙しなければならない。

2021年1月5日の日記


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昼食のために買ったけど食べきれなかったパン。

 

 

今日から研究再開だ。去年から発注してたマウスも受け取り、僕の重い腰も強制的に上げさせられる。

今日は別のキャンパスに用事があったので、いつもと違うコンビニで昼食を買った。

 

13時ごろに買いに行ったのだが、そのコンビニはパン・弁当・おにぎりの棚がほぼ空の、発注ミスってる感じの店だった。

まあ別の店に行くのもあれなんで、残っている商品の中から昼食を買った。

 

最近自分の中でマヨコーンパンが再評価されていて、たまに食べたくなる。

コーン・パン・マヨの渾然一体となった味は、かなり完成度が高いと思う。あとやっぱりマヨネーズってうまい。

 

あとは今日は、年明けに締め切りが重なっているレポート、学会要旨、ES(エントリーシート、就活で書く嘘にまみれた世界で一番汚い紙)を書いたりしてました。

 

まあ何とかなるやろと去年のうちは思ってたけど、冷静になると量と進捗状況がやばい。日記とか書いてる場合じゃない。なんで元旦から始めようとしたんだ自分は。

真綿で首を締められているような状況だが、日記を書き続ける体裁だけはなんとか保ちたい。(ここで終わるのは流石にかっこ悪いので)

 

 

今日初めて気付いたことだが、太宰治アルベルト・アインシュタインは、「学問」というテーマに関して、似たような言葉を遺している。(正確には、前者は本人が言ったわけではなく作中のセリフだが)

 

以前僕自身が記事にしたが、太宰治は学問について『覚えたことを全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っていて、それこそが貴いのだ(要約)』と自身の作品「正義と微笑」に書いており、

 

アインシュタイン『教養とは、学校で学んだことをすべて忘れてしまった後に、残っているもののことである』という言葉を遺している。

 

ここで太宰の言う「砂金」とは、まさしくアインシュタインの言葉の中の「教養」ではないか。

 

逆はないにしろ、太宰治アインシュタインに影響を受けていたかは定かではないが、

同時期に異なる国に生き、文芸と物理学という異なる道を究めた2人の男が奇しくも同様の言葉を遺している。

 

このことに今日気付き、感動を覚えた。

 

僕も何かを成し遂げ、言葉を残せるような機会が来た時のために名言を考えておこうかな。

 

「学校で覚えたことを全て忘れたとしても、そのあとに残るひと粒のポイフル。このポイフルを、皆さんの心の中に大事にしてください」

 

とかどうだろう。

 

それからポイフルのCМに起用されてQさまとかに出たい。