じふのブログ

人は、語ることの出来ないものに対して沈黙しなければならない。

2021年2月10日の日記



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セブンイレブン新商品のクラブハウスサンドを食べました。

レタスのつづりってlettuceなんだ。

 

税込399円とコンビニのサンドイッチの中でも少しお高めの価格だが、これ一個でまあまあお腹いっぱいになるのでコスパという面ではそこまで悪くないかと思います。

 

中に挟んであるペッパー辛子マヨネーズみたいなソースが美味しい。

 

本日のコンビニ飯レビューは以上です。

 

 

 

今日は午前10時からオンライン会議の予定があった。

あったにもかかわらず、起きたのは9時57分だった。起床と同時に、自分の色んな臓器が縮み上がるのを感じた。

どうやらスマホをサイレントモードにしたまま寝てしまい、アラームが鳴らなかったらしい。

 

急いで冷水で寝ぐせを直し、上半身だけシャツに着替える。

なんとか3分間で最低限の身なりを整えzoomに参加したが、画面越しの自分の顔が今にも死にそうになっていて反省した。

 

 

 

 

 

今日ニュースを見ていて、「責任を取って辞任する」って何なんだ?とふと思った。

 

肩書のある人間が失言や不祥事を起こした際、責任の取り方としては、辞職あるいは辞任するという方法が、現在最もメジャーだと思う。

 

 

この「責任を取って辞職する」という表現、矛盾してないか?

 

 

自らの役職を辞するということは、職責から解放されるということに他ならない。

 

問題が解決した後ならばまだ理解できるが、問題を起こすだけ起こして自分は職責を外れる、というのは逆に無責任なのではないだろうか?と疑問に思った。

 

例えるなら辞任という手段は、自分の不始末で起こした火事の現場から逃げるようなものだ。

そこには消火活動を押し付けられる「誰か」が必ず存在することになる。果たしてこれが責任を取っていると言えるだろうか?

 

 

僕が思うに、火事を起こして全て放り出して逃げるのではなく、少なくとも消火活動に参加するのが本当の意味で責任をとるという事ではないだろうか。

 

 

つまり僕の意見は、「自分の失態に責任を感じるなら、職責を全うする形でその責任を果たすべきだ」ということだ。

 

現在の「責任を取る=辞任」という構図は、どこかでそろそろ改められてもいいんじゃないかと思った。

 

 

 

以上が今日考えた事です。