じふのブログ

人は、語ることの出来ないものに対して沈黙しなければならない。

2021年1月15日の日記


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ピエールエルメのエクレア、美味しかったです。

 

セブンイレブンの新作を買うためにアルバイトをしているみたいなところある。

 

 

 

 

今日、映画「oasis : supersonic」を観た。

 

言わずと知れた世界的ブリットポップ・バンドであるoasisの、デビューから3年間の軌跡を描いたドキュメンタリー映画だ。

 

まさしくsupersonic(超音波)の様な速さでスターダムを駆け上がっていく様は、観ているだけでも爽快そのものだった。

 

oasisと言えばノエルとリアムの兄弟関係がフィーチャーされることが多いが、この映画も例に漏れず、ギャラガー兄弟の関係性とその変化が特に取り上げられていた。

 

といってもその構図自体は「やんちゃな弟リアムに振り回される兄ノエル」という感じで、どこの家庭にもあるものなのだが、如何せんリアムの「やんちゃ」の度合いが過ぎている。(ツアーに向かうフェリーの中で酔って大暴れし逮捕される、アメリカでのライブ前夜に覚醒剤のやりすぎで歌えなくなるなど…)

 

定期的にリアムへの怒りが爆発し、失踪を繰り返すソングライターのノエル。そんなバンドの状況に精神を病んで辞めるメンバー。

 

そういった内部状況にも関わらずスターダムを一気に駆け上がってこれたのは、兄弟が互いを深く理解し合い、認め合っているという良い意味での嫉妬心と緊張感が原動力だったからだということが、ギャラガー兄弟のインタビューからは伝わってきた。

 

それ故にバンドが壊れてしまったとなると、解散を惜しむことは出来ないな、と自分の中では改めて納得できた。

 

この映画の中で何より衝撃的だったのは、僕がoasisの曲の中で最も好きなものの一つである「Champagne Supernova」は、ノエルが作曲からレコーディングまでを1日で終えた曲だという事です。天才という言葉で片付けてしまうのは理解の放棄だと思ってるんですが、これはさすがに天才すぎる。

 

 

長々と感想を書いたが、こういうドキュメンタリー映画を観ることの楽しみって、映画自体よりも「観た後」にありますよね。

ドキュメンタリーを観た後だと、曲やアーティストに対する解像度や捉え方が変わって、同じ曲を聴いても自分の心の動きに変化があるというか。

ドキュメンタリー映画は、音楽をより深く聴いて楽しむための調味料だと思います。

全アーティスト、ドキュメンタリー映画撮ってくれ!

 

 

2021年1月14日の日記


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今日は一歩も家から出ず、天井を見て過ごしていました。

 

就活イベントが2件立て込んでおり、研究室には行かなかった。

言ったとしても「待ち」のフェーズだからやること無かったし。

 

そんなわけで僕の方は「異常無し」という感じの一日だったのだが、世間では今日から僕の通う大学のある京都府を含む、7府県に非常事態宣言が発令されたらしい。

かといって僕の生活には何の影響もなく、明日からも通常通り通学するのだが。

 

やっぱり一回目の時よりインパクトが薄れている感じしますよね。

一回目のときは前代未聞だったから大きく世間の注意を惹いたが、二回目になると多少慣れてしまっている自分がいる。

 

各種メディアで色々と議論がなされているが、個人的には、出てきて1年やそこらのウイルスにエビデンスも何もあったもんじゃないから全部が不毛だと思っていて、結局のところ個々人が手を洗って会食を避けるしか出来ることはないと思います。

一市民としては、ネガティブなニュースを受けてあんまり思い悩むのも精神衛生上悪いと思う。

だから僕は、報道に関しては話半分くらいに見てるのがいいのではというスタンスです。

 

 

 

 

今日で日記をつけ始めて2週間になる。

とりあえずここまで続いて良かった。まだ負担は感じないし、(忘れない限りは)しばらく書き続けようと思う。

 

思えば昔から、この日記のように思いついたことはすぐ始めてスッと飽きる、いわゆる「熱しやすく冷めやすい」タイプだった。

ただ、ギターやこのブログなど、その中で幾つか続いていることもあるからそこは素直に自分を褒めたい。

 

最近は毎日更新していると気になってくるもので、このブログのアクセス数をチェックするのが日課になっている。

やっぱりコンスタントに書いていればコンスタントに見てくれる人はいるもので、その存在が日記を続けるモチベーションになっているのでここで公開して正解だったな、と思う。

 

本当に有り難いことに以前友人のトルソー君とやっていたwebラジオについても復活を待っていますとのコメントを頂いているので、そのうちまたやりたいです。

 

 

本当にやるぞ……!

 

 

 

2021年1月13日の日記


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就活で使っているメモ帳を何気なく見返していると、「連結管理」とだけ書かれたページがあった。

 

何があったのかも思い出せないしそもそも書いた記憶がない。怖い。

 

 

しかしながら見返すメモ帳の厚みを手に感じ、ここまでようやってきたな、と自分ながら思う。

 

まあ本番はこれからなので何も終わってないのだが。

 

 

ここにきて就活と研究の両立がきつくなってきた。

というのは研究内容的に細胞、動物を扱っているため、第一にスケジューリングで首が回らないからだ。

もちろん細胞や動物は待ってくれないので、「来週月曜は厳しいんでリスケお願いできますかね?」なんてマウスに聞くこともできない。

特に僕の実験は1回のスパンが長いため、一度始めると、1か月先の予定まで固定されてしまう。

これだけなら上手いことやり繰りすれば何とかなるんじゃ?と思われるかもしれないが、僕の就活・研究の両立が困難を極めているのは、次の第二の理由によるところが大きい。

 

その第二の理由とは、僕はマルチタスクがめちゃくちゃ苦手だという事だ。

 

どこかで聞いた話では、人間はマルチタスクでは生産性が40%低下するなんて言われているらしいが、僕はそれは嘘だと思っている。

100%だよ100%、もう何にも手につかなくなる。

 

社会人は皆マルチタスクをしているって本当ですか?

ただでさえ社会に出たくないのに、一層自信無くすな…

 

研究と就活だけならまだしも、先生から振られる雑務や授業補助までやってるとな~んも進まん。な~んも進まんのに気付いたら帰宅してるんですよ。人間って怖いですよね。

 

 

そんな就活だが、(ベンチャーは別として)どこの会社でも大抵は類型化されていて、何冊か書籍を見ても、ある程度対策は確立されている。

 

そんな、いわゆる「紋切り型」の就活のプロセスは槍玉に挙げられることも多いが、僕はもちろん優れている面もあると思っていて、特筆すべきものが「自己分析」だと思っている。

 

自分の経験を元に抽象化していき、自分の性格や価値観を炙り出すこの自己分析はどのサイトでもここから始めよう!みたいに勧められているが、どれだけ人生を漫然と生きていようと、就活という人生の岐路のタイミングで強制的に自身を省みることになる点で、いいシステムだと思う。

 

ただこの自己分析もある意味でナンセンスな側面を孕んでいて、それは①自己分析は「現在の」価値観を炙り出すものである ②人の価値観は内的・外的要因により容易に変化するものである という2点で説明することができる。

 

要するに入社時の価値観に合わせて会社を選んでもずっと同じ価値観をもって満足できる保証はないということだ。

 

 

そういう意味で、僕は自己分析を”就活には役立たないが重要だ”と思っている。

2021年1月12日の日記


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つ、疲れた…

 

今日は午前に就活関係のイベントに参加し、大学に向かいながら昼食をとり、

午後は研究室で実験準備をしてから他のキャンパスに向かい実験をするというてんてこ舞いな一日だった。

 

こういう日の帰り道は缶コーヒーがうまい。

豆から挽いたコーヒーもうまいけど、疲れた時の甘い缶コーヒーも同じくらいうまい。

 

そんな家路の途中、いつも通らない道を車で走っていると肉寿司ののぼりを揚げる飲食店を見つけた。

 

 

 

皆さんは食べたことありますか?肉寿司。

僕は食べたことがないが、なんとなく以前から肉寿司に対していけ好かない印象を抱いている。

お前なに外道寿司のくせに本格和食っぽく振舞ってるんだよと。出てきたのここ5年くらいだろ。

そうやってしれっと高級和食っぽく扱われているのが僕はどうも気に入らないのだ。

 

かと言って僕は魚以外の寿司を全否定しているかというと全くそんなことはなく、同じ肉を使った寿司でも、回転寿司店のハンバーグの寿司は許せる。

許せるどころか、僕はハンバーグ寿司がむしろ好きだし回転寿司に行った時はほぼ毎回食べる。

ああいったお弁当に入ってる感じのハンバーグは他に食べられる機会がないし、あの絹挽きのハンバーグがたまに恋しくなる。

 

なにより、ハンバーグ寿司のあの、雑に食べても許される感じというか、気取らなさが好きなのだ。文字にするとポップ体が似合う感じ。

 

それに比べて肉寿司はどうだ。

大きい皿にちょこんと鎮座してくる(イメージがある)し、フォントも行書体じゃないと納得しないだろう。

お前もハンバーグと同列だからな、図に乗るなよ。

僕は肉寿司にそう言いたい。

 

 

 

日記か?これ 

 

2021年1月11日の日記


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KALDIで買えるこのチョコレート、香りが良くてウイスキーとかコーヒーによく合うのでオススメです。

 

 

最近は寒いので、ハイボールが飲めなくなってしまった。

ウイスキーは専らトゥワイスアップ(ウイスキーと水が1:1になるよう割る飲み方、僕は一番好き)でこのチョコレートをつまみながら飲んでいる。

 

今日は寒すぎて外に出てないし、な~んもしていない。

ずっとネットフリックスでアニメ美味しんぼを流しながら、ネットサーフィンをしたりソシャゲをしていた。

 

アニメ美味しんぼは凄い。最近見始めたのだが、あっという間にシーズン1の38話を見終えてしまった。

 

何が凄いかというと、第一に話のテンポの良さだ。

主人公・山岡士郎の勤める東西新聞社を舞台に、

トラブルが起きる→山岡さんが食の知識で解決→人情話でホロリorクスリと笑える

というフォーマットが完成されているのだ。

 

これが1話完結で20分で自然に収められていて、さらに全120話も近くあるのだから驚きだ。

 

また、美味しんぼの面白さは単に「食の雑学を学べる」というだけではなく、「山岡士郎という一人の男にフィーチャーした人間ドラマ」としても見ることができるところにある。

 

士郎は陶芸家、画家でありながら美食家の父、海原雄山が亡き母の料理に対してきつくあたって、母に心労をかけていたことから、雄山に対して深い恨みを持っている。(作中では雄山のことを指し、『俺の母を殺したのはあの男だ!』とまで言い放っている)

一方で雄山から受けてきた美食の英才教育により、食にこだわらずにはいられない自分に憤りを感じている面もある。

 

それに対して雄山も、士郎が家出する際に自分の陶芸作品を全て壊していったことに対し恨みを持っており、親子が互いに恨み合う構図となっている。

 

美味しんぼは、家出以降、新聞社でぐうたら社員として怠惰に過ごしていた士郎が「究極のメニュー作り」に抜擢されることにより、再び美食の世界に触れ、雄山と相対するところからを描いている。

 

これは言わば、山岡士郎の止まっていた時間が、美食をきっかけに再び動き出すまでを描いた物語だと言えるのではないだろうか。

 

 

Youtubeでも一部無料公開しているみたいなので、是非美味しんぼを見てみてください。

「究極のメニュー」1話前編 | 美味しんぼ | [ENG sub] - YouTube

 

ちなみに僕の推しはパジャマがかわいいことでお馴染みの大原社主です。

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2021年1月10日の日記


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日曜日。

 

細胞の世話をするため研究室に行き、その後、丸亀製麺で遅めの昼食を食べた。

 

僕は丸亀製麺では毎回必ず明太釜玉うどんを食べる。

ネギと天かすをドカッと盛ってから麺を全部食べ、器に残った明太子と玉子とネギを全部一緒にかきこむのが一番うまい。

午後は髪を切りに行った。

今は就活生の身分なので就活カットを続けているが、全部終わったら学生のうちに思い切った髪型にチャレンジしたいな。

顎髭も伸ばしたい。

 

 

 

 

今日思った事。

 

最近はリテラシー意識の進歩で、いわゆる外見イジリが社会的にアウトだという共通認識が生まれてきた。(テレビでの外見イジリもじきになくなるのだろうか)

 

「ハゲ、ブス」イジリなど「生まれついての、本人の努力ではどうしようもない外見的特徴」をイジるのはもちろん批判の対象となり得るが、じゃあそれらに対して「デブ」イジリはどうだろう?と考えた。

 

前述の「ハゲ、ブス」と比較すれば、決定的に違うところとして「自分の努力(生活習慣の改善)で体型はどうにかなる」という部分がある。

ここで難しいのが、この議論は一歩間違えば「いじめられる側にも原因がある」みたいな話になるところで、僕はここでは一切そういう話はしてない。

 

僕が気になったのはこの2種の外見イジリの性質の違いについてである。

仮にデブイジリを不快に感じる人がいたとして、「現在の生活習慣を続ける(瘦せない)こと」と「デブイジリの不快感」を天秤にかけて「瘦せないこと」の方をとる、そういった心の動きがあったりするのだろうか。

 

まあ種類どうこう言っても道徳的には言葉の受け手が不快に感じた時点で全部アウトなんですけどね。

ただ今書きながら思ったんだけど植毛とか美容整形がある時点で実質的にこの分類意味ないわ。

 

という訳で解散!お疲れ様でした!

 

2021年1月9日の日記


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土曜日。休みなので、近所の喫茶店に美味しいコーヒーを飲みに行った。

 

コーヒーは好きで、カルディでいろんな種類の豆を買っては試している。

そうしていると、詳しくないなりにもコーヒーに対する解像度が上がっていき、自分の好みというものが分かってくる。

 

コーヒーの味は「苦味」「酸味」「キレ」「コク」の4つの要素で表現されることが多いが、僕は苦味とかコクの強いコーヒーを美味しいと感じるんだな、といったふうに、コーヒーだけでなく自分に対して新しい発見をするという楽しみも見出せる。

 

 

でも人にコーヒーを好きっていうのって、妙なハードルの高さが無いですか?

わざわざ好きと言うってことは詳しいんでしょ?みたいな雰囲気を感じてしまうのだ。「コーヒー好きならあれ飲んだことある?」みたいなこと言われたらどうしようという不安が常に自分につきまとってくる。

「○○が好きなのにあれ知らないんだ…」みたいに思われる、ガッカリさせてしまう不安。

 

コーヒーに限った話ではない。日本酒や映画、音楽なんかでも「好き」って名言すると自分を試されそうな感じがしませんか?

 

現実にはそんなこと言ってくる人周りに居ないし、気まずさを感じたことも無いのでもうこれは完全に杞憂というか、ほとんど病理だなと自分でも思っているのですが、好き=詳しいみたいな風潮無くなってくんねえかな…。

 

実際のところ、自分の「好き」はどんどん表明していった方が良いと思っている。

そういう所から機会に繋がることも多いので。

2021年は自分への解像度を上げて、好きを表明していく一年にしようと思います。